「籠釣瓶」の黒御簾 (1)
今月歌舞伎座で「籠釣瓶」が上演されていますが、その黒御簾について書いてみようと思います。
序幕 新吉原仲の町の場
楽屋に廻りの柝がはいると、みな舞台へ向かいます。「仲の町」は花魁道中が二つ(九重さんと八つ橋さん)出ますので登場人物が多いですから、舞台にいく通路は新造や若い衆でいっぱいです。そこをかき分け私達は黒御簾へ向かいます。舞台の裏では玉三郎さんが八つ橋のこしらえの最中で、騒々しい舞台裏でそこだけピンとした空気が張り詰めています。
この場の黒御簾内には三味線4人、唄6人、お囃子さん7、8人と立錐の余地のないほどの大人数。舞台の支度が整い、析がなおると客席、舞台とも暗転になります。
幕明きに弾くのは「清掻(すががき)」でこれは廓で遊女がお風呂から上がりお化粧をして格子に並び(見世を張ると)弾いたといわれる三味線の手です。長唄「吾妻八景」にも「いつ越えたやら衣紋坂、見世清掻に引き寄せられて、つい居つづけの朝の雪」などと唄われています。弾くことは『チャン(地)チャン(替え手)チャン(地)チャン(替え手)』と同じ間で互いに追っかけてひく単純なものなのですが、技術としてはとても難しい物です。「助六」では人物の出入りや台詞のところで、いろいろなノリで弾いています。
暗転の中をこの「清掻」に通り神楽を打ち込み幕が明いていきます。止め柝が入るとパッと闇から一転して、新吉原仲の町の夜の景色が現れます。しかし誰が初めに考えたのか、この幕明きはすばらしいですね。
ここで次郎左衛門と治六が廓の若い衆に引かれて花道から出てきますが、この出の曲は「天地乾坤(てんちけんこん)」で、鳴物は大小騒ぎが入ります。
「天地乾坤混沌未分、見事な酒は多けれど、聞いてびっくり丸三杯呑んだ盃、つい、ついついのつい」
これは長唄「一人椀久」の一節で、原曲の歌詞を、黒御簾で使っている部分の少し前からあげてみます。
「自体我等は都の生まれ、色にそやされこんな姿になられた、天地乾坤混沌未分、見事な酒は多けれど、聞いてびっくり丸三杯呑んだ盃、ついついついのつい、酒にあかさぬ夜半もなし、それが嵩じた物狂い」
「私は都の生まれだけど、色に迷って訳が分からなくなり、夜な夜な酒に耽り松山の事を思いつめるうちに、物狂いになった」こんなふうに書くと色気も何もありませんが、椀久が狂乱にいたるまでのことを唄った部分です。唄の意味も廓に関していますので用途としても合っていますし、曲調も賑やかで廓の雰囲気が出ています。
立花屋長兵衛(又五郎さん)が現れ若い衆を追い返し、次郎左衛門に廓の勝手を話して上手に入るまで「天地乾坤」を唄入り、又は合方で使います。
野暮な田舎者の二人が、廓の勝手が分からずうろうろしているところで
治六の台詞「あんだか、安心がなりましねえだ」で花道より、傾城九重の出になります。
「美しや、顔もほのめく桜時、霞の帯や雲の帯、天津乙女の天降り、姿をここに三吉野や」
九重の出には「美しや」という曲に渡り拍子、通り神楽が入ります。花魁道中の出の音楽ですから、唄、三味線、鳴物共にとにかく派手に大きく演奏します。特に唄は声量がいりますから大変で、このあたりから黒御簾内の温度は一気に上昇します。
九重一行が上手に入るのを見送った次郎左衛門の台詞
「ありゃ、国の錦絵で見た、江戸の吉原の花魁の道中だろうよ」でいよいよ八つ橋の出になります。
「闇の夜に吉原ばかり月夜かな、月じゃ月じゃ」
この「闇の夜(やみのよ)」は長唄「揚巻」(安政四年三月江戸中村座、中村福助初演)の一節で、廓の場面で使う曲の中では重要な物です。「助六」の揚巻の出もこの曲です。鳴物は「美しや」と同じです。
八つ橋一行が上手奥から出てきて、ちょうど「月じゃ月じゃ」の唄一杯で舞台中央で次郎左衛門とぶつかります。何だろう?と次郎左衛門が八つ橋を見上げてびっくり、ぶるぶるっとなって極るのが、唄の二杯目の掛かり。
「春がすみ、立てるやいづこ三吉野の、花じゃ花じゃ」
歌詞が変わりますが同じ曲です。この唄で八つ橋は下手に行き、見事な後ろ姿を見せながら新造等に裾を持たせて褄を持ち替えます。初めの出の時には若い衆の右側にいますが、花道の入りでは若い衆の左側、八つ橋が客席の側に来るように位置を替えて、花道附際に行きます。
さあここでこの場のハイライト、呆然としている次郎左衛門に八つ橋が微笑みをなげかけます。夢かうつつか、見とれている次郎左衛門を後にして、気をかえた八つ橋が一歩踏み出したのが三杯目の唄の掛かり。
「闇の夜に吉原ばかり月夜かな、月じゃ月じゃ」
この唄一杯に八つ橋一行が花道を入ります。
「美しや」と「闇の夜」は、調子も高く声量がいるので唄の人には一番大変なところです。唄い終わった唄の人を見ると皆、歌舞伎座のまわりを3周くらい走ってきたような汗をかいてゼーゼーいっています。私たち三味線はというとここは一番気持ちのいいところなのですが、大太鼓や唄の大音量に負けて、三味線の音は弾いている自分にも聞こえないような状態です。この場の黒御簾内の音量というのはすさまじいものですが、体にビリビリ、脳みそにまでジンジン来るあの大音量に揉まれているのは、なんとも気持ちのよいものです。
八つ橋の一行を見送って、治六が宿に帰ろうと次郎左衛門に声をかけますが、次郎左衛門は羽織の肩が落ちたおかしな格好のまま固まっています。何を言っても駄目なので、とうとう治六が袖を引っ張り「もし旦那、帰りますべえよ」
やっと我にかえった次郎左衛門
「宿へ帰るが(笠を落とし袖を払うのが柝の頭)いやになったぁ」で「風に翼(かぜにつばさ)」の唄になり幕となります。
「風に翼のおしろいも、乱れ乱れて、糸の縺れや思いの絆、花に憧れ月に浮かれて、待つに来ぬ夜は」
始めはゆっくり弾きはじめて、次郎左衛門の体の動きを見ながらだんだんノッテいきます。
これは長唄「菊慈童」(宝暦七年八月市村座上演、本名題「乱菊枕慈童」)の一節で
鳴物は大小、途中から騒ぎが入ります。
これにて序幕おしまいです。
二幕目第一場 立花屋見世先の場
長唄「吉原雀」の二上がり「その手で深み」で幕が明きます。
「其の手で深みへ浜千鳥、通い馴れたる土手八丁、口八丁に乗せられて、沖の鴎の二挺立ち、三挺立ち」
八つ橋の元に通いつめるようになった佐野次郎左衛門は、紀文以来のお大尽と吉原中の評判。立花屋の見世先では下女と若い衆がそのうわさ話をしています。そこへ八つ橋の親代わりになっている遊び人の釣鐘権八が出てきます。権八の出は幕明きと同じく「吉原雀」の上記の唄の続きの部分を使います。
「素見ぞめきは椋鳥の、群れつつ啄木鳥格子先(きつつきこうしさき)、叩く水鶏(くいな)の口まめ鳥に」
ここから人物の出入りにはこの「素見ぞめき」を何回か弾きます。
次郎左衛門に金の無心をしに来た権八が、立花屋長兵衛に話をする件に弾いているのが「更けて」の合方。「更けて」は、文化十年三月江戸中村座で三世坂東三津五郎所演の十二ヶ月舞踊の内の正月、長唄「門傾城」の一節で、世話狂言にはつきものの合方です。
金の無心を立花屋長兵衛に断られ、嫌がらせをしているところに女房のおきつが出てきますが、こちらにもきっぱり断られ、こんなところで寝てもいられないと花道に行き「よくも指を食うぇさしたな、この返報は覚ぇてろ」で掛かるのが
「待乳沈んで梢へ乗り込む、山谷堀」
これは端唄の「待乳沈んで」です。始めゆっくり弾きはじめ、権八が仕返しの手立てを思い付き、膝をうったところでノリを変え、早間の合方にのって権八は花道を入ります。
長兵衛の台詞「縁起でもねぇ、塩花でも撒いてくれ」で再び「素見ぞめき」になり揚幕より次郎左衛門が仲間を二人つれて出てきます。金を使って通いつめただけのことはあって、序幕の田舎者から打って変わってすっかり遊び慣れた感じになっています。茶屋に上がり女将や仲間におだてられて、「この具合は実に無類でございますな」で八つ橋の出になります。
「松の太夫の打掛は、蔦の模様に藤色の、愛し可愛いもみんなみんな男は偽りじゃもの」
これは長唄「老松」の三下りの唄い出しです。八つ橋の「ごめんなんし」で附直し、「蔦の模様」から唄ううちに座敷に上がります。すっかり深い仲になった次郎左衛門と八つ橋、憎まれ口をきいて八つ橋にきせるでお灸をすえられても、嬉しくてしょうがない様子。それを見ていた仲間が「こりゃ眉毛へつばをつけて置きましょう」というと、次郎左衛門「眉毛につばをつけるとはモシ花魁、廓にはうぶで」八つ橋の吸い付けたばこを頂くのが柝の頭「ござりますね」で「素見ぞめき」の唄入りにかかり、舞台が半分廻るところまで弾きます。
二幕目第二場 大音寺前繁山浪宅の場
舞台が半分廻ると華やかな吉原から鄙びた風景に変わりますが、ここで曲も変わります。
「慕う心はな、みなもと通り、今宵やいのとふみかきのもと、首尾を見合わせ、おうなかとみの」
「慕う心」は長唄「浜松風恋歌(はままつかぜこいのよみうた)」(文化五年八月江戸中村座初演)の一節です。三下りのしっとりした曲調で、町家の場面の幕明き、出入り、幕切れに唄入り、合方として多くの狂言に使われています。この場でも、舞台が納まって雇い女と兵庫屋からのお使いが話をしているところ、栄之丞と権八が花道から出て二人で本舞台に来て座敷に上がるところ、雇い女と兵庫屋のお使いが下手に入るところ、までこの曲を使います。
先程立花屋でやりこめられた権八が、栄之丞にいろんな話を吹き込む件で弾いている合方は端唄の「夕暮」です。この曲で思い出されるのが「八幡祭小望月賑」の稲瀬川浪除の場で、縮屋新助が棹をさすとこの唄の「月に風情を」からの独吟になるのですが、実にいい場面ですね。参考までに歌詞を書いておきます。
「夕暮れに、眺め見あかぬ隅田川、月に風情を待乳山、帆かけた舟が見ゆるぞえ、あれ鳥がなく鳥の名も、都に名所があるわいな」
権八の話ですっかり頭に来てしまった栄之丞が兵庫屋へ出かけよう、というところまで「夕暮」の合方を弾き、先程引っ込んんだ雇い女が帰ってくるところから栄之丞の支度が出来上がるところまで「慕う心」の合方を弾きます。
栄之丞「ろくな噂も(柝)しおるまいて」で「慕う心」の唄入りになり幕となります。